あの日から。
2011年の4月下旬、震災からおよそ45日後の宮城県北部にボランティアで入った日。
石巻、女川、南三陸を目の前にした記憶は忘れられない。
まだ粉雪が舞い、水道の水は冷たくて3秒も触れていられないたった8日間。
この目で見たこと、感じたこと、体験したこと。
自然の大きさ、人間の小ささ。
腐敗の臭い、焚き火の匂い。
青い空と海、漆黒の星空。
小さなことへの感謝、人との縁。
地域コミュニティや文化、風習の違い。
笑える人、笑えない人、志や使命感。
出逢ったボランティアメンバー、現地の人との時間は今自分が生きている上で考えたり、選択する時に必ずといって良いくらい影響がある。
あれから7年、毎年3.11になると「再訪したいな」と思いながらも行けていない自分がいた。
それが今年は、この日がタイミング良く週末にあたることで実行することにした。
動機は当時と同じ、自分自身で。
目的は大きく2つ、7年後の今を見て南三陸でお祷すること
そして、この地の美味しいものを食べること。
復興という簡単には表現できない言葉ではあるが、メディアやGoogleマップではわからない部分、自分が実際に見た光景がどのようになっているか。
そして、初めての訪問では厳しい食生活で必死だったので現地の名物を食べるどころではなかった。漁師さんが大切に育てた牡蠣や魚の話し。また全国のみんなに食べて欲しいという想いを込めて「今度は食べにおいで」という言葉は強い想いと共に記憶に残っていた。
2018.3.11 早朝1番の電車で仙台へ。
旧鱒淵小学校、スタート地点から再スタート
レンタカーを借り北上する、2時間ほど、まずは登米にあったRQ東北本部跡地である鱒淵体育館へ。こうやってくると詳細に記憶が喚起される。
体育館は物資で埋まり、毎日搬入搬出。足湯のあった場所や避難所。
http://www.rq-center.net/
偶然か必然か、再会した仲間たち
避難所とボランティアセンターが終了してからもう静寂に包まれている、誰も居ない…はずが礼服に身を包んだ人が見えた。
やはり考えることは同じだったらしい。
なんともあっけなく、いや必然というべきことか当時一緒に活動していたボランティアメンバーとバッタリ再会を果たしてしまう。
誰もいないこの場所で、しかもたった数分違っていたら会えていなかったもの凄いタイミングである。
この方は、村上泰史さん。一般社団法人ボランティアサポートの代表でRQ登米ボランティアに1年ものあいだ貢献されていた方だ。少し猫撫で声で優しい雰囲気を思い出すのは一瞬であった。当初はお互いのコトなんて話さないので、自己紹介と懐かしい話しを少し。このあとは南三陸町の慰霊追悼式に出るというので、これまた行くところも同じとは。
一端別れを告げるが、この先の分岐点で注意とのこと。ナビやGoogleの言うことを聞くと今は悪路で痛い目にあうと。地元の人のアドバイスもいただき一路自分は本吉地区へ向かう。
気仙沼市本吉町
仙台駅を出発してから、やっと津波の被害のあった海沿いの景色を見ることができた。
船着き場は整備され船もあるが全体はまだ土山を整備しながら橋を作ったりしてる途中。津波に影響無いような橋をかけるには10m以上も高い位置まであげる必要があり、そのために盛る土の量がもの凄い、工事の進みに相当影響しているように見える。本吉は防潮堤は無いようだ。良くある普通の堤防があって、海にはゴミ1つ浮いていない綺麗なものだった。
毎日通った陸前港
南下してすぐに「陸前港」についた、ほぼ毎日といって良いくらいみた光景だし当時地元の人と少し話せるようになり、子供たちの秘密基地に連れてってもらったり、逆にジュースを貰って泣いたことを思い出す。
駅(跡地)は12mほどだろうか盛り土がされ、10m級の堤防が整備されつつあった。港周りの山は段々に棚状に開拓され、ここも海面から15mほど高い位置に家が建っていた。
綺麗な海に感動した田ノ浦の裏にある浜は1mほどの堤防が少しあった程度で、農地は荒れ果てていた。
瓦礫の中で踏ん張ったガソリンスタンド
さらに南下した「歌津」、先ほど村上さんにオススメされたラーメン屋「飛上」で腹ごなし。
当時のボランティアメンバーにしかわからないかもしれない”歌津のエネオス”、海沿いで半壊滅状態であったこのスタンド。
震災直後からスタッフが必死に営業していた姿は忘れられない。
橋の残骸以外なにも無かった歌津
歌津の陸橋も高さは12mほど、まだまだ途中。全てが盛り土、当初は橋の残骸以外何にも無かった。
南三陸町志津川
南三陸町のベイサイドアリーナで行われる追悼式へ。
ここは非常に厳かな雰囲気でした。ほとんどが被災され犠牲者の遺族が集まっているように見えました。開式まではしばらくあるとのことで献花台にお祈りだけさせていただき先に行くことにしました。
最後まで諦めなかった命の記録
南三陸町役場前の防災庁舎のあった志津川駅付近。
漁港と海は綺麗な状態になっていた。
周囲を見て、なるほどなと。
全然イメージできていなかった現地の今を感じる。
残っていたのは、「防災庁舎」と330人を救った「高野会館」だけであった。震災当初は全てが流され平地同様だったこの地は区画ごとに堤防で囲まれた街へと設計されているようでした。
盛り土された海抜12m程度の場所に去年オープンした「さんさん商店街」、人が賑わっているのはそこだけであとはコンビニがあるだけ。
港は分厚い堤防の外に整備され、整備エリアはほぼ全域工事中で立ち入ることができない。
高台から街全体を見わたすことができたので上がってみる。
いつ立ち入りが制限されるかわからないが高野会館までは歩いて行けた。青い水門は無くなっていた。
堤防に囲まれるのが目に見えてわかるようにまわりの景色は全て盛り土された土の壁である。
高台から見た南三陸町
自分が感じた初見はこのとおり。
・平地じゃなくなってる。
・復興といえど、また土地整備中の段階。道路は綺麗
・船着き場と加工場は機能していそうな雰囲気
・残ったのは防災庁舎と高野会館
・できたのは、さんさん商店街とコンビニくらい
・堤防…低くないか?
この最後の堤防に関しては不思議だった。
無論、復興計画など詳しいことを知らない自分にも問題はあるが、勝手なイメージを持っている状態の正直な感想を容赦願いたい。
たしか津波の高さは20mだったはず。建物浸水高でも15m強。なのに堤防は見る限り10m程度なのだ。防衛庁舎も高野会館も堤防から頭が見えてしまっている時点でやはり見積もっても15m以下なのだ。
もちろん、これは色々設計した故のものだろうけど・・・無知な人間にとっては理解が難しい。理論的にに高ければ良いモノではないだろうけど・・・ この高さを決めるまでも景観と安全と予算といろいろ時間をかけて決めたことなんだろうなぁと。外野が単純に”津波より高い壁にすりゃぁいい” みたいな、そんな次元ではないのだ。
7年で良くここまで、とも思えるが。進みが遅いとも見えるが違う視点なら瓦礫撤去にどれだけ大変だったのか、とも言えると思う。
遅い早いは別として、生活ができて、人がいて、”街”という印象になるにはまだまだなのは確か、素人目ではあるが土地整備完成すらまだ数年はかかり、そこからやっと建物が整備され・・・人が生活・・・となるともっともっと時間がかかる気がする。
政府が ”1歩1歩、進んでいる” とは言うが、工事やっている=復興、として表現しているように使うことは避けて欲しいものである。
本当に復興したのであれば、そこに生活があり、とても被災地とは思えない空気で、あたりまえが日常になって、その先に、観光、宿泊施設、物産が発展する状態になれば、僕ら一般の人が街に訪れお金を使い、手助けができるものかと思う。極端に言えば地域と僕らがそういう特別な関係性でなくなって復興といえる気がする。
正直、今の時点で僕らが直接的に被災地に何かできるか?といわれれば少なからず色々なアプローチで可能かもしれないが、1番は工事に必要な人材、資材なのではないか?と私は思った。
この点から考えると、オリンピックとか本当に・・・ 影響あるんだろうなぁ。。って。
さんさん商店街の姿
さて思う節を抱きながらも、目の前の「さんさん商店街」は盛り上がっている。ガラっとした志津川に1カ所だけ渋滞ができ、駐車待ちの列。
海鮮丼や物産が並び、客で賑わっている。外国人の陰はほとんどなかった。
過去の写真と震災時の比較写真展もやっていた。
先ほどベイサイドアリーナの厳かな雰囲気とは逆で、良くも悪くも休日の”道の駅”のような雰囲気である。TVの中継が入り。防災庁舎に向けて献花台も設置されている。
時が止まり、時が進む。
程なくして、時刻は14:46を迎えようとしていた。
ワイワイとしていた人々が川沿いに並び防災庁舎を見つめたり、その場で静かに待ったり。
サイレンが1分ほど鳴り響く。
7年前、この南三陸の志津川で見た景色が忘れられず。
色々な感情に包まれたことを思い出す。
改めて再訪し、この地で黙祷を捧げることが今回の大きな目的でもあった。
サイレンが鳴りが終わると、50名ほどの集まりができ「ふるさと」を歌い出す。他にも数曲。
静寂から活気が戻り、”時の進み” を皆で共有しているようだった。
女川に向かう予定だが、海鮮モノは混んでいたのでどうしようか悩む・・・
結論としてタコ好きな自分としてはワイルドスタイルを取ることにする。魚貝売り場でタコの足(ボイル)だけを購入し、その場でかぶりつく(笑)これが1番良さがわかるよね。本当に旨い!程よい塩気と噛むほどに旨味、弾力が強くアゴがやられそう。タコをモグモグしながら、車で南下し女川湾を目指す。
女川地区が選んだ道
一端内陸を経由して1時間半くらい時刻は16時半頃、暗くなる前に間に合った。
ここは友人の故郷でもあり、SNSで復興具合もある程度わかってはいたが、震災同時最初に衝撃をうけた場所であるが故に半信半疑だった。南三陸は全てが流された感じだが、女川は大きなものがなぎ倒されたように建物が残っているけどビルごとひっくり返っていたり、電車の車両が山の上にあがってたりと水の推移と引き波の凄さを目の当たりにした光景だったのを思い出す。
この地は、最近メディアで復興具合を取り上げられるようになって、もの凄い綺麗な駅舎やショッピングモール「ハマテラス」ができたのが伝えられている。
本当はどうなのか・・・綺麗な道路が整備された1本道を石巻から向かっていくとインフラは整っているようだった。女川医療センターの上から見たパノラマは今。。
女川の南側に関しては、ほぼ整備された土地になっていた。
山沿いに開拓したり盛り土でできた高台に住居が作られていた。
駅は綺麗に建てられ、駅前には海に向かうように作られたショッピングモールがあった。駅からは港が見渡せて、足湯もある。電車の線路も元通り、当時壊滅的だった山の墓地も綺麗に直されていた。
時間的に人が少なかったが、この駅前だけの雰囲気ならば知らない人なら「え?ここ被災地?」と思うほどであった。なぜなら…..防潮堤が無いのだ。町からのどこからでも海が見えるこの光景は南三陸とは全くの別モノであった。
女川は町らしく、生活感もあって、観光サービスも充実しているようだった。
もちろん町の大きさはあるかもしれないし、一片で比較することはできないのも確かだが、ただ大きく違うのは、”土で囲った町” か ”土地を盛り上げた町” かということ。
参考
https://abematimes.com/posts/2109847
http://politas.jp/features/4/article/335
復興にある背景
復興度合いの早さとか進め方は簡単には比較できないが、これこそ”タイミング”と“選択”による違いが7年の歳月でハッキリと違うことがわかる。正解なんてわからない、ただ違いだけは子供でもわかるほど明確であった。
この2つの町の違いを見ることで、ただ復興したのでなく、その町ごとの葛藤や文化、関わった人など色々なものが入り交じりながらここまで7年やってきたということがわかる。
今日一日をほぼ移動だけで費やし、気仙沼港にはいけなかったが本吉・歌津・志津川・女川・石巻を一気に見ることで見た目ではわからない部分を俯瞰的に感じることができた。
そんな思いをいただきながら石巻漁港を経由して車を走らせる。仙台駅に着いたのは21時頃。当初は最終で日帰りの予定だったが、大きな目標である ”この地の美味しいもの” を全然味わえていないじゃないかっ!!! なので、急遽泊まることにした。
そうなると時間に追われた妥協飯をする必要もなくなるので気が楽になり、宿はカプセルで安く取れたので、時間を気にせず店の選定をして、どうせなら贅沢してやろうかと。
恵みと育み
まずは飯だろ、腹減った。。
分厚い牛タンを炭火でウィーっとね、テールスープも多めで具もたっぷり。
出てくるのも早いしペコ野郎には助かるぜ。
生タコ刺身!ホッキ貝!ツブ貝!赤貝! 貝好きにはたまらない。
お腹は落ち着いたけど、足りない、何かが…..牡蠣だろ!牡蠣っ!
ということで散歩しながら見つけたオイスタースタンドの「かきや NO KAKIYA」へ、8席ほどしかない小さなお店。一人でも入りやすいってのが良い、もう御飯は食べたのでサクッと寄れれば。
先ずは生牡蠣、岩手と宮城の地域食べ比べ。
コレコレ、牡蠣大好きなのよ….. もちろん合わせたのは日本酒。宮寒梅 (みやかんばい)というのを選んだけどコレがもう美味い。山田錦使った大吟醸で、キリッとしつつも甘みの余韻が長い。生牡蠣の塩分とバランス良し。同じ食べ比べを次ぎは石焼き(≒蒸し)で。
本場に来ると生よりもこの蒸しタイプが盛んなようですね。実際のところ自分は生牡蠣派だったんすけど、多くは食べられないですね。今日みたいに贅沢に個数食べるなら、石焼きが楽しめますね。焼いた貝の殻に溜まった焼き汁が美味すぎですホントに、ギュッとね詰まった汁飲んで、日本酒で追いかけると悶絶しますね、ハイ。無限ループです。
久しぶりに日本酒飲んだのと、今日の300キロ弾丸ドライブが効いたのか、どっぷり酔ってしまいました。眠気もMAX、テッペンも近いので宿へGo。仙台の繁華街には人もそこそこ居て、道が広い。。デカイバックパック背負った野郎にはキャッチすらこなかったですわw
とにかく大きな目的の美味しいものは、もう文章よりも写真見てわかるそのままですw。
貝好き、タン好きな自分にとっては天国ですわ。
カプセルなのに露天風呂と壺風呂あったり、マットレスがエアウィーヴだったりと充実で温泉も堪能して疲れを癒して就寝。
翌日は月曜、見事に仙台からエキストリーム出社。
早朝の仙台には、粉雪が舞い、あの日を最後の最後まで思い出させてくれました。
タイミングと選択、その次へ
さて、こんなにも長ったらしいのを読んでいただいて恐縮です。
総括というか思ったことをまとめて。
地元の方や今も大変な生活を送っている方には非常に申し訳ない表現ではありますが、直感で思った場面と少し過剰な言葉の表現をお許しください。
今回は海沿いの町しか訪れていませんが、総じて船・漁港に関しての機能はどこも復旧しているように見えました。海にはゴミ1つ浮いておらず綺麗なエメラルドの海はリゾートにも負けない美しさでした。湾にはイカダや養殖の漁具が多くまさに海産ありきの町だなと。
インフラは問題なさそうで道路は綺麗ですが、陸橋などの工事はまだまだです。南三陸の志津川地区は堤防もまだ完成してなく、エリア分けされてはいるが正直、更地のような印象が強い。土が盛られているのでどこかの採掘場のような雰囲気でした。海側の生活感はほとんどなく、どんな町になるのかも想像できないほどでした。唯一の寄りどころである「さんさん商店街」確かに食べ物やお土産は買えるけど、海が見えない点でいうと道の駅のような感じが出てしまい”商店街”という地域感は少し足りない気もするので現地らしい雰囲気の観光サービスというにはまだまだ難しいかもしれません。もう少し横町的な小料理屋や酒場の雰囲気もあるといいのかもなぁ。海が近いのに見えないという少し異質な雰囲気をどのように感じさせないようにするのか工夫が必要だと思う。
少し高さのある旅館でも建てば、海の広がる景色は絶景なので観光ポイントとして良さそうな気がします。湾が広く綺麗なエメラルドは是非活かして貰いたい。
女川の駅、駅前「ハマテラス」はゆったり綺麗。駅から海に向かいながら散歩気分も気持ち良い。ただ駅前以外の南側に関してはこちらも更地に近く土が整備された具合なので、今後どのようになるのかわからないが、堤防が無いぶんどこからでも海が見えるのは観光開発としてはポイントになりそうだし、気分的に被災地というのを忘れてしまいそうな効果があることは非常にプラスになると思う。地形特性で海が水平線まで開けていないのと視野のワイドさは南三陸よりも厳しい点はあるが、山が近いのもあるので海だけにフォーカスせずキャンプやアウトドア的要素、街全体の照明効果もいれれば冬でも活用できそうな展開も期待できるかもしれない。
石巻は、通過程度でしたが漁港付近の船、加工場は問題なく進んでいそう。ただ道路の整備がまだ半ば程度の印象です。内地はすでに整備された区画になっているが正直家屋はそこまで多くない印象であった。仙台は観光地として松島などもあるが、今回はいけなかったのが残念だが駅の西側繁華街はアーケードも多く雨でも動きやすい。一人でもはいりやすい店も多いようで、食べ物は豊富でやっぱり海産は美味い、そして日本酒が美味い。ビールやハイボールなんてやめて1杯目から是非”酒”で乾杯してもらいたい。
「感覚」を研ぎ澄ます
世の中には”いいね”が溢れた綺麗な楽しそうな写真が多く目に入る反面、こういった幸せにもならない、楽しくもない、でも大切な光景がどんどん埋もれていく時代でもある。写真のための御飯、楽しいことだけするんじゃなく、興味無くても、楽しくなくても”知っておくべき事”のためには無駄を惜しんではならない。また、”これは知っておくべき事”だなというのを察知するいわば「第六感」のようなものを失わないよう、常に研ぎ澄ませておきたい。
僕は自然の中だったり、海の中だったり、人の縁を紡いだり、縁のある地を再訪したりすることで保つことができていると思ったが、今回ここに戻ってきて「ハッ」とした部分があったということは、まだまだ色んなものが足りないことも自覚した。そんな”お金”にも、”いいね”にも置き換えられない人間の感覚を研ぐことができる場所のひとつがここ東北なんだと思う。
「こういう場所や研ぎ会える仲間を増やす人生にしたい」と想いながら宿の露天風呂に浸かっていた。
あとがき
こんな感じで、1泊はしたがほぼ弾丸訪問で車の移動距離は300kmという結果非常にタフなドライブにはなったが、目的地はすべてまわれてたし、美味しいモノも食べたので非常に満足ではある。単純に観光や食事だけなら日帰りでも十分楽しめる距離にあることは確かだ。
いつもは車移動ばかりの自分としては久しぶりに新幹線、というか恥ずかしながら1人で新幹線に乗ったのは初めてでだったのでドキドキも味わえた。車なら6時間かかるのに、はやぶさなら1時間弱って近すぎるだろ。。
次回は仙台で行ってない観光地も気になるけど、やはり南三陸の海。あのエメラルドの海の中はどんな景色で、どんな生き物がいるのか、そして海底にあった計り知れない瓦礫がどのようになっているのか見たいのもあるので次ぎはダイバーとして海に潜れたらいいなと思います。いや、まだ食べてないものいっぱいあるから・・・そっち先かなw。
このように次の目的もでき、今の宮城をこの目で、この舌で体感できました。
天気にも恵まれホントにありがたい。
女川へ向かう途中、振り返るとやはりエメラルドの海が志津川に広がっていた。
あの真っ青な空とエメラルドの海は7年前と変わらず。
ボランティアの同期とも会えたミラクル、選択で異なる復興をする町の様子、7年前の自分の思いに心を馳せながら・・・改めてこの日、3月11日を想う。
貴重な1日をありがとう。
またいくぜ東北。